子供たちと走り抜けた関西中学受験の備忘録&中高一貫校でのアレコレ

うちの子たちの中学入試振り返りと、その後の学生生活でのあれこれを、時系列はばらばらですが気侭に書き散らかしています。

感情を横取りしない押しつけない

このタイトルを肝に銘じようと最初に思ったのは、息子が小学生時代に所属していたサッカーチームで、です。

 

子供のチームといえど、勝ち負けにこだわる時もめっちゃあります。となると、レギュラー選びという選抜に向き合わなくてはなりません。残念ながらレギュラーになれなかったお子さんの親御さんが、息子は才能があるのに贔屓があるがために選ばれない、息子も悔しいと思っている、などなどの発言を残して退団されていきました。

コーチも人間ですし、人間的に気にいる気にいらないもあるでしょうし、サッカーに関しても望ましいと思うプレイもあればそうでないものもあります。また、レギュラーに選ばれたからといって勝てる布陣かどうかもわからないです。まあ市井ではたいていそんな戦術レベルまで技術を磨いてる子なんて、まだまだ少ない年齢。明らかに上手いか下手か、練習量が多いか少ないか、体が大きいか小さいかで、才能まではそこまで関係しないとは思うのですが。

選ばれなかった悔しさはわかります。だってうちの息子も漏れていましたから。ただ、明らかにうちの子は勝ちたいという欲はギラギラしてないし、自主練もおざなりでしたから、冷静に見たらレギュラーにはなれないと判断できました。何より見守る私は悔しかったのですが、息子は悔しさを露わにしなかったのです。これが大きかった。

彼が悔しいと言うならば、私は息子に寄り添って共感して、その先の努力をはげませる。けれどそうでないなら、悔しさは"私の"想いであって、息子の感情ではない。それを間違えちゃいけないな…と思っていたところに、ほかの親御さんのそんな姿を見て余計に、でした。

また、息子が悔しいと思うならばそれは彼自身の感情。露わにしないことを選んでいるのに、親が露わにするのはおかしい。

 

受験にしてもそうだと気づいたのは、何年生のころだったでしょうか…。

親が行かせたい学校なのか、子供か行きたい学校なのか。親を喜ばせたいあまりに子供が親の意向を感じ取って発言することって、多々あります。子供はそんな本質に気づかないし、親は意向通りの言葉が我が子の口から出てきたら、満足して本質を見誤ってしまったり。

親の掲げていた第1希望を諦めて、第2を第1に繰り上げて受験校を決め直したお子さんに、人前で負け犬と言い放ったお母様。

入れたかった志望校クラスから脱落したお孫さんに、そこに入らないと人間じゃないとマクドで懇々と説教していたお祖母様。

子供を思うあまり、良かれと考えたことは親の感情。子供の中から生まれた感情とリンクしているか⁈。自分に問いかけ続けないと、熱心な大人は大人だからこそ、我が子に感情を押し付けてしまいそうと思うのです。

 

そういう私にもなかなか難しく、先日も子供達と一悶着ありました。翌朝になって子供達も一つの人格を備えてるんだよな…と反省しました。反省はしたけど、実は納得いってない私。まだまだ話し合いの余地ありと思っていて、私を納得させられないくらいならばまだ甘い!と思ってたりします。時間とともに、反省度合いが増していて、折り合いポイントをどう理性的に探れるかを考えるようになりましたが。

親が想いを押し付ける自覚のない時って、子供はまだちゃんとわかってないという歯がゆさがあり、導かないとという使命感が親を駆り立てているんです。

こんな周りが見えなくなる私だからこそ、失敗こそ成長の糧と、ある程度の放任を許す人がすごいと思います。だいたいそういう方って、そつなくこなせる器用な人か、相当親を困らせた子供時代を過ごしたか、親のあずかり知らぬところでオイタをしまくってそのままバレてない?ような方々かなと推測しているのですが、きっとだからこそ失敗の痛みから学んだことがある人たち。いい子ちゃんで居ようとして、石橋を叩いて叩いてしてきた私には渡れない川を、経験からひょいと飛び越えていかれるような感覚を覚えます。

逸れかけましたが、とりあえずこのタイトルが今年の私の抱負ということで、皆様に宣言して背水の陣とさせていただきます。