子供たちと走り抜けた関西中学受験の備忘録&中高一貫校でのアレコレ

うちの子たちの中学入試振り返りと、その後の学生生活でのあれこれを、時系列はばらばらですが気侭に書き散らかしています。

自主と放任

『自由と放任はちがいます』

 

ある学校の先生の言葉です。この一言で、私が学生時代から抱えていたもやもやがすーっと晴れました。

自由を謳った学校は多々あります。灘、東大寺洛星同志社、神女…。自由を与えてもちゃんと子供達が自ら考え自制できる、という考えからのよう。素晴らしいです✨。

 でも、みんながみんな、入学して即自由自主を守りつつ謳歌できる???…わけないですよね。やはり戸惑ったり間違ったりする子だっています。

 

そもそも先生・学校側も、正しく自主を理解してるのか?。その言葉を良いことに、中身は放任ではないのか?。

私の出身高校は、今は知りませんが、当時は自主自律を掲げていました。公立高校ですが、そういう学校はそれなりに存在します。でも、本当になーんのフォローも無く、躓いても自力でなんとかしないと落ちるところまで落ちます。それはもう容赦なく。

逆に、自分でしたいことが決まってる生徒には天国です。ちゃんと単位を取っていれはば内職と言う名の他科目の勉強をしていても怒られない。だから、現役で東大京大に合格する子も少なくないけれど、一浪くらいする子もそれなりに当たり前に居ました。

中学までの、なんとか進学先を決めてあげようという教師の姿勢とは全然違う指導。ここで勘違いする生徒も多々います。私もその1人。学校の勉強がちんぷんかんぷんになった時のストッパーが無い。たいていそんな生徒は自ら先生に聞きにいけません。だって何がわかってないかすら、わからないから。

 

上の言葉を聞いた時、この発言をされた方が続けて言われました。『勘違いしてる教師も多い』と。

責任転嫁も混ざってないとは言いませんが、きっと私の出身校は放任だったのです。なのにどこかでちゃんと掬い上げてくれると信じていた高校生の私。それなりに進学、就職、結婚、出産と人並みの生活を送ってきたものの、あの高校入学の時点に戻れたならば、学校を信じ切らずに自分で計画し対策とりなねと自分に教えてあげたいです。

 

学校がちゃんと生徒に自主を導いてくれるのか?。

学校という箱に放り込んだままで勝手に染まると思ってないか?。

この見極め、とても難しいと思います。子供自身の持つ力が学校側の力を必要としないレベルから、きっちり教え込まれて身につく子まで。入試という選抜は等しく勝ち抜いてきてはいますが、人の数だけパターンはあるもの。十把一絡げに指導できないのが現実でしょう。

我が子が受験塾通いを始めた時の暫定目標が公立中高一貫校であったことは、前に書いたと思います。私立に舵を切ったのは、公立には教師の転勤がある、ことが大きいです。教師の意識、転勤したての人って勘違いしたまま生徒を指導したりしないだろうか、と。少なくとも、数回足を運んだ一貫校は、私の母校と同じ気配がしてました。

自主を指導するには、自主と放任の違いがわかってる学校でないとできないと思ったのです。少なくともその学校の指導方針に染まり、色んな化学反応を起こす子がいると経験から知っている先生方が揃っていないと。常日頃から、何年にも何代にも渡って自主を教えている学校の教師ならば、子供たちと接している中で手綱の締め具合を感覚でわかっている可能性がある。

たぶんですけど、指導する側からだと管理の方が大変ですがシンプル。自主は気をつけないと放任にすり替わってしまうけれど、生徒に意識付けできたら効果絶大。放任はただひたすら先生が楽。こんな図式が見えませんか?。

当然我が子たちは入試で選別されていますが、私も学校を選別したのです。入れて頂いただけではなく、学校の指導方針に共感して6年を託そうと考えたのだと思っています。

 

ちなみに、ある学校は校長が変わられて空気が全く違うものになりました。

全員で大学入試に向けて6年間頑張ろう!という団体戦の熱い指導から、エリート然としたクールな指導に。前の方が好きだった私は、早々に候補から外した経緯もあります。

 

自主と放任の違い、この話をされたのは東大寺学園の清水教頭であったことをお伝えして、このお話は終わりにします。